最初の30年間、ブルーノートは伝説的なエンジニア、ルディ・ヴァン・ゲルダーと共に、共同設立者であるアルフレッド・ライオンとフランシス・ウルフのリーダーシップのもと、繁栄した。レーベルは、1950年代後半のハード・バップから1960年代半ばのアヴァンギャルドな抽象音楽まで、ジャズの最先端を行くミュージシャンたちと共に進化していった。
1970年代に入ると、ブルーノートはドナルド・バードの『エレクトリック・バード』やボビー・ハッチャーソンの『サンフランシスコ』といった初期のジョズ・フュージョン作品をリリースし、すでに新しい領域に踏み出していた。どちらのアルバムもデューク・ピアソンがプロデュースしたが、ブルーノートのサウンドを一変させたのは、身長180cmの優雅なジョージ・バトラーの登場だった。
フランシス・ウルフの死後、ユナイテッド・アーティスツ・レコードでソウルやゴスペル音楽のプロデューサーとして活躍していたバトラーには、時代に合った音楽を自由にブルーノートからリリースする権限を与えられた。その中にはドナルド・バードの『エチオピアン・ナイツ』のようなアルバムも含まれ、ブルーノート新時代に相応しい画期的なリリースとなった。1971年8月にロサンゼルスのA&Mスタジオで2日間に渡ってレコーディングされ、レーベルの重鎮たちが参加したこのバトラーのプロデュースによるレコーディングは、バードのハード・バップ・トランペッターからジャズ・ファンク先駆者への完全転向を裏付けるものとなった。
その後すぐにロニー・フォスターの画期的なアルバム『トゥー・ヘッディド・フリープ』がリリースされた。ニューヨーク州バッファロー出身のオルガン奏者で、1970年にリリースされたギタリスト、グラント・グリーンによるソウル・ジャズ・アルバム『Alive!』に参加し、ファンキーなバイブを加えた事で知られるミュージシャンだ。フォスターがブルーノートに残したジャズ・ファンクの名曲「ミスティック・ブリュー」は、ア・トライブ・コールド・クエストが1993年にリリースした大ヒット・ヒップホップ・トラック 「Electric Relaxation」でサンプリングされ、世代を越えて若いファンを魅了した。
ブルーノートはエルヴィン・ジョーンズのようなレーベルの重鎮によるハード・バップをリリースし続けていたが、その未来はドナルド・バードが先導するジャズ・ファンクとフュージョンによって定められつつあった。 このトランペッターがブルーノートでジョージ・バトラーの為に録音した作品は、ラリー・マイゼルとアルフォンソ・フォンス・マイゼルのマイゼル兄弟の名と共に、永遠に語り継がれるだろう。
フォンス・マイゼルは、ジャクソン5との仕事で有名なモータウンの作曲・プロデュース・チーム、ザ・コーポレーションの一員として名を馳せた。モータウンの創業者、ベリー・ゴーディーが兄弟自身のアルバム制作を約束したが、一向に実現しなかったため、ザ・コーポレーションから脱退した。ARP Pro-Soloistと言う当時最先端のシンセサイザーを購入し、フォンスとラリーは自分たちのデモ音源を作り始めた。出来上がったデモ・テープをSky High Productionsという名前でブルーノートに売り込んだのだ。
ジョージ・バトラーがリリースされる全作品のエグゼクティブ・プロデューサーに就任し、幾重にも折り重なる音のレイヤーとスペーシーさが特徴の、スカイ・ハイ・サウンドは、ドナルド・バードのジャズ・ファンクの傑作『ブラック・バード』と 『ストリート・レディ』で結実した。この2枚のアルバムはマイゼル兄弟が1973年から1976年にかけてブルーノートでバードのために作曲、プロデュース、アレンジ、演奏したシーンを決定づけた5枚のアルバムの最初の作品である。
複雑なアレンジだけでなく、マイゼル兄弟のヴォーカル・ハーモニーもスカイ・ハイ・サウンドの重要な要素となり、それはドナルド・バードの1975年のアルバム『プレイシズ・アンド・スペイシズ』で頂点に達した。重厚なスペース・ファンクと幻想的なジャズ・フュージョンの間を行き来するこのアルバムには、バードの最大のヒット曲であり、良くサンプリングされる「ドミノス」、「チェンジ」、「ウインド・パレード」が収録されている。
マイゼル兄弟と最も関係の深いもう一人のブルーノート・アーティストは、テキサス出身のフルート奏者ボビー・ハンフリーだ。ハリウッドのサウンド・ファクトリー・スタジオでドナルド・バードの『ストリート・レディ』をレコーディングした前の週に録音された『ブラックス・アンド・ブルース』は、高揚するソウル・ジャズからエレクトリック・ファンクの間を行き来する。このアルバムには、サンプリングネタとして様々なヒップホップ・アーティストが頻繁にサンプリングする、マイゼル兄弟の最もエレガントな作品のひとつ「Harlem River Drive」が収録されている。
翌年8月、ハンフリーはサウンド・ファクトリーに戻り、3日間のレコーディングを行った。このレコーディングはブルーノートでの5枚目にして最後のアルバムとなり、マイゼル兄弟との3枚目のアルバムとなった。タイトルが示す通り、『ファンシー・ダンサー』は頭だけでなく足もターゲットにした踊れる作品だった。アルバムは、マッドリブが2003年にブルーノートからリリースした『シェイズ・オブ・ブルー』でサンプリングした「Please Set Me At Ease」で幕を閉じ、ジョージ・バトラー時代の影響が続いていることを証明した。
マイゼル兄弟がブルーノートに洗練されたスタジオ技術をもたらした一方で、ジョージ・バトラーはライブへの愛を失うことはなかった。1973年7月、彼はブルーノートのスター数人をモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演させた。フェスティバルの模様はすべて『Cookin’ With Blue Note at Montreux』シリーズの一部として録音された。しかし、ドナルド・バードのライブ音源は2022年までブルーノートの保管庫に眠っていたのだ。マイゼルの洗練さを取り除いた10人編成のバンド(ラリー・マイゼルとフォンス・マイゼルを含む)は、「ブラック・バード」などの名曲を、より生々しいファンク主導の形で披露した。
ジャズ・ファンクの時代と深い関わりを持つジョージ・バトラーが、コロンビア在籍中(1978年にブルーノートを退社後)の1980年代初頭に、ビバップの純粋主義者であるウィントン・マルサリスのキャリアを導いた事でよく知られるようになったのは、皮肉なことかもしれない。その過程でバトラーは、10年以上前にブルーノートで成し遂げたように、再びジャズの流れを変える事に貢献したのである。
アンディ・トーマスはロンドンを拠点に活動するライターで『Straight No Chaser』、『Wax Poetics』、『We Jazz』、『Red Bull Music Academy』、『Bandcamp Daily』に定期的に寄稿している。また、『Strut』、『Soul Jazz』、『Brownswood Recordings』のライナーノーツや、RBMAの短編映画のストーリーボードも執筆している。
ヘッダー写真: ドン・ハンシュタイン/ソニー・ミュージックエンタテインメント