1964年4月まで、ジョン・コルトレーンの伝説的なカルテットは3年連続でツアーを行っていた。アルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス』の成功に後押しされ、彼らは年間45週間、週に6日コンサートを行い、コルトレーン、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズの絆はますます強くなっていった。カルテットはまた、ヨーロッパとアメリカの大学生を魅了し、これまで以上に多くの聴衆を惹きつけていった。

しかし、コルトレーンの私生活も波乱に満ちた時期であった。妻のナイマと離婚し、第一子を授かる予定だった若いピアニストのアリス・マクラウドと居を構えた。また、アルバム『バラード』やジョニー・ハートマン、デューク・エリントンとのコラボレーションは大成功を収め、リー・モーガンの『ザ・サイドワインダー』や、ジャズ・ボッサの傑作アルバム『ゲッツ/ジルベルト』がポップ・チャートを席巻していた時期でもあったが、彼はもっと尺が長く、探究的な曲を録音したいと切望していた。

インパルスと新たな契約を結び、1964年4月27日、コルトレーンはヴァン・ゲルダー・スタジオに入り、死後にリリースされた『ザ・ロスト・アルバム』の収録曲がレコーディングされた1963年3月6日のセッションを除けば、約3年ぶりとなる新作をレコーディングした。

そこで生まれたのは、彼がこれまでにレコーディングして来たものとはまったく異なるもので、彼の作品群の中でも最も過小評価されている珠玉の作品の一つだ。切なく、内省的で、メランコリックだが強烈で、3人の共演者を強く前面に押し出した『クレッセント』は、明らかに次にリリースされる『至上の愛』のスケッチブックでもあった。もっとも、レコーディングは間違いなく良く、温かく、親しみやすいものだった。またコルトレーンは「ワイズ・ワン」、「ローニーズ・ラメント」、「ザ・ドラム・シング」の少なくとも3曲は、アリスに読んでもらうために家のあちこちに置いていた詩からインスピレーションを得たものだと明かしている。

タイトル・トラックは、賛美歌であると同時にアフリカ風の新たな音の世界を聴かせてくれる。その後に、よくコピーされるBセクション(スタンリー・クラークの 「Tradition」をチェックしてみて欲しい)と、ジョーンズのヴォーカルが冴え渡る魅力的な4/4拍子のスウィング・インタールードへと続く。コルトレーンの最近のスタンダード曲への探求は、ここでは大胆で新しい色彩を生み出している。彼の「クレッセント」でのソロ(ほとんどの部分でタイナーは不在)は、最近デイヴ・リーブマンが『JazzTimes』誌2017年10月号で、ジャズの必聴ソロ40曲として挙げている。(またリーブマンは、伝説的なジャズ界の重要人物であるマイケル・カスクーナと同様『クレッセント』を『至上の愛』よりも好きなコルトレーン作品として挙げている。)

ジョン・コルトレーン。Photo: Francis Wolff.

メランコリックで祈りのような 「ワイズ・ワン 」は、ジョーンズの得意とするラテン風ミッドテンポ・グルーヴへと発展する。(7:06でギャリソンをスウィング・フィールに引きずり込む魅惑的な瞬間を除く。)

それに比べると「ベッシーズ・ブルース 」はコルトレーンが新たに見出した叙情性を愉しみながら祝う、ほとんど捨て曲のようなトラックである。「ザ・ドラム・シング」はジョーンズのトレードマークであるタムタム/キックドラムの音色が、スペインや北アフリカを想起させる、美しいオープニング/クロージング・テーマである。

『クレッセント』の大部分は1964年4月27日に録音されたが、4人は6月1日にヴァン・ゲルダー・スタジオに戻り「ベッシーズ・ブルース」とタイトル曲を再録音した。その3週間後、彼らはアルバム『ブルー・ワールド〜ザ・ロスト・サウンドトラック』をレコーディングした。そして6月29日、コルトレーンの大切な友人でありコラボレーターであったエリック・ドルフィーが36歳の若さで亡くなった。総じて1964年はジョン・コルトレーンにとって極めて重要で波乱に満ちた年であり、多くのことを考えさせられる出来事が次々に起こり、12月の『至上の愛』レコーディングで最高潮に達したのだ。

マット・フィリップスはロンドンを拠点とするライター兼ミュージシャンで、その作品はJazzwise、Classic Pop、Record Collector、The Oldieなどに掲載されている。著書に『John McLaughlin:
From Miles & Mahavishnu To The 4th Dimension』がある。


ヘッダー画像: ジョン・コルトレーン。Photo: Gai Terrell/Redferns via Getty.