世界中どこを探しても、こんな音楽はない。異次元の表現力をたずさえた2台のピアノと、天衣無縫としか言いようのない歌。約73分のどの瞬間を切りとっても、すべてが激しくせめぎあっている。このうえなく楽しげに戯れあい、まるで1つの音の塊となって脈打っている。矢野顕子×✕上原ひろみの新作『Step Into Paradise -LIVE IN TOKYO-』を聴いて、心からそう思った。

本アルバムは、2011年にスタートした共演ライヴ盤の第3弾。2024年9月、東京オペラシティで2日間開催されたレコーディング・ライヴから8テイクが収められている。不運にも立ち会えなかった音楽ファンには、ぜひ白熱のパフォーマンス音源を追体験していただきたい。冒頭の感想は決して誇張ではないと納得してもらえるはずだ。

矢野顕子×上原ひろみ
Step Into Paradise -LIVE IN TOKYO-

「とにかく自分の役割を果たすことで必死。毎回これが最後という思いでやってきました」。誰もが認める“天才の中の天才”矢野顕子は、上原との共演プロジェクトについて常にこう語ってきた。「どうすれば2人のステージを実現できるか。頭の中でいつも口説き文句を考えていますね」。現代ジャズ・シーンのフロンティアをひた走る上原ひろみは、毎回とびきりの笑顔でこう返す。そんな2人が「これまでで最高の1枚」と口を揃えるのが、今回の『Step Into Paradise』。内容を紹介する前に、ユニットの歩んできた道をごく簡単に振り返っておこう。

最初の出会いは2004年9月。NHKの音楽番組「夢・音楽館」が矢野の特集を組み、ゲストとして当時25歳の上原が招かれた。彼女はその前年、ファースト・アルバム『Another Mind』で世界デビューを果たしたばかり。ずっと憧れだった存在を前にして、本番収録前は緊張が隠せなかったという。だが2台のピアノをはさんで向き合うと、レジェンドを前にいきなり本領を発揮。矢野が提案した童謡「おぼろ月夜」で、初対面とは思えない息の合った演奏を繰り広げた。「ピアノを弾きながら、興奮で肌がざわつくようでしたね。矢野さんが持つ音楽の世界の強さを全身で感じました」。ファーストコンタクトの印象を、後に彼女はこう表現している(単行本『上原ひろみ サマーレインの彼方』より)。テレビ局のスタジオで行われた、わずか4テイクの短いセッション。だが今日まで続く「全存在をかけた、ピアノによる会話」は、まさにここから始まったと言っていい。

深く響き合うものを感じた2人は、公私にわたり交流を深めていく。同じニューヨークを拠点としていることもあり、互いのライヴを訪れる機会も増えた。そして2006年、矢野の30周年セルフカヴァー・アルバム『はじめてのやのあきこ』に、上原が参加。1986のアヴァンギャルドな名曲「そこのアイロンに告ぐ」で、矢野相手に激しくうねるアドリブを披露した。同年12月にはスペースシャワーTV主催のセッションイベント「Jammin’」で、初のジョイント・ライヴが実現。昭和女子大学人見記念講堂でたっぷり1時間以上、怒涛のような演奏で観客を圧倒した。上原いわく、ライヴ中はずっと「こんなスリリングな“乗り物”は初めて!」とワクワクを止められなかったそうだ。

2009年9月、上原は初のピアノソロ・アルバム『Place to Be』をリリース。日本盤ボーナストラックとして、矢野顕子参加の「Green Tea Farm」が収録される。上原の故郷・静岡の茶畑をスケッチした、懐かしくも美しいナンバーだ(2004年『Brain』収録)。実はテレビでの初共演の直後から、矢野はこのバラードに自作の日本語詞を付けてステージで歌っていた。たおやかな声が描きだす風景は、上原が作曲時に思い描いていたイメージそのものだったという。この年はさらに大舞台での共演が続く。7月には欧州最大規模のジャズフェス、North Sea Jazz Festival(ロッテルダム)に出演。9月には「矢野顕子×上原ひろみ」名義で、東京JAZZフェスティヴァルを大いに盛り上げた。

そして、2011年9月9日。現在まで続くレコーディング・ライヴのプロジェクトがついに始動する。規格外のポテンシャルを最大限引き出すため、あえて“一夜限り”のコンサートを開催。やり直しのきかないシチュエーションで、究極のインタープレイをそのまま収録するという企画だ。会場には、2人がライヴで初共演した人見記念講堂が選ばれた。2,000枚のチケットは瞬時にソールドアウト。張り詰めた空気をものともせず、矢野と上原はイマジネイティブな演奏を繰り広げる。矢野の「CHILDREN IN THE SUMMER」や上原の「Cape Cod Chips」といったオリジナル曲に加え、童謡、ジャズ・スタンダード、昭和流行歌まで──。ジャンルを飛び越える怒涛のセッションは、その2か月後には広く世界に向けて発信された。矢野顕子✕上原ひろみの共演アルバム第1弾『Get Together -LIVE IN TOKYO-』である。

類まれな音楽の歓びに満ちたこのライヴ盤は、各方面で高い評価を獲得する。続編を熱望する声も高まった2016年の9月15日。矢野のデビュー40周年記念プロジェクトの一環で、5年ぶり2度目のレコーディング・ライヴが敢行された。前作同様“一夜限り”の会場となったのは、Bunkamuraオーチャードホール。ピアノ2台の“会話”はさらに親密さを増し、見事なタペストリーのように緊張と緩和を織りあげている。矢野の人気曲「東京は夜の7時」や「飛ばしていくよ」。上原のレパートリーに矢野が歌詞を書き下ろした「Dreamer」。さらには童唄とウェイン・ショーターの名曲をマッシュアップした「おちゃらかプリンツ」や、美空ひばりとビル・ウィザースが響き合う「真赤なサンシャイン」など、誰も真似できない計8曲。その一部始終は翌2017年3月、共演アルバム第2弾『ラーメンな女たち -LIVE IN TOKYO-』としてリリースされた。言うまでもなくラストの定番となった矢野の代表曲「ラーメンたべたい」と、2人が愛してやまない日本の国民食にちなんだタイトルだ。同年4月にはこのアルバムを引っ提げ、全国6都市・8公演の「TOUR 2017 ラーメンな女たち」も敢行している。

その後も2人は、唯一無二の“心の相棒”としてやりとりを重ねてきた。2020年8月、上原はコロナ禍に苦しむライブ業界を救うため「SAVE LIVE MUSIC」プロジェクトを始動。その趣旨に矢野が共鳴し、2021年5月にブルーノート東京でライヴが実現したのも記憶に新しい。以上、ごく駆け足で2人の共演ヒストリーをたどってきた。

運命的な出会いから20年。前回のレコーディング・ライヴから数えてはや8年。待ちに待った2人の共演アルバム第3弾『Step Into Paradise -LIVE IN TOKYO-』がリリースされる。前述のように、会場は東京オペラシティ コンサートホール。固唾をのんで見守る観客を前にした、一期一会のピアノ・セッション。その緊張と躍動をそのままパッケージするというコンセプトは、前2作とまったく変わらない。ただし今回のレコーディング・ライヴは“一夜限り”ではなく、9月24日・25日の2日間にわたって開催されている。間違いなくこれは、決定版を残したいという2人の意志の表われだろう。「これで最後です。しかも、全部新曲です。どうぞよろしゅうおねがいします」。本作のリリースにあたって、矢野はこんなコメントを寄せた。天才と天才が、互いの表現力と技術のかぎりを尽くしぶつかりあう超絶デュオ演奏だ。すさまじいエネルギーと集中力、入念な準備が求められることは想像にかたくない。ユーモラスな口ぶりの奥に、矢野の本音を感じとるのは筆者だけではないと思う。

『Step Into Paradise -LIVE IN TOKYO-』は、そんな2人の強い思いが結晶化したような作品だ。ピアノ2台(88鍵✕2)の可能性を考え抜き、どこまでも精緻に構築されたアンサンブル。比類のない疾走感と繊細なリリシズムの豊かなコントラスト。どんなに激しいタッチでも濁らないピアノの音色と、天空を駆けるような矢野のヴォーカル。すべてが、前2作以上の存在感で聴き手に迫ってくる。重苦しさや悲愴感は微塵もなく、ただただ自由で風通しのいい“会話”が響きわたっている。

オープニング、矢野が作曲した「変わるし」にぜひ耳を傾けてほしい。この愛すべきブルースからは、なすすべもなく流転する人生の諸相が、どこまでも軽やかに浮かんでくる。3曲目「ドラゴンはのぼる」は、宇宙飛行士・野口聡一さんが書いた詞に矢野がメロディを付けたもの。重力を振り切って飛び立つ者の心を、こんなにも鮮やかに描いた音楽を筆者はほかに知らない。4曲目「ポラリス」では、上原の最新プロジェクト“Hiromi’s Sonicwonder”のレパートリーに矢野が英語詞を乗せた。北極星と人間をテーマにした壮大なストーリーで、繊細かつドラマチックな構成が圧倒的だ。オリジナルだけではない。誰もが知る童謡とハービー・ハンコックの名曲を融合させた2曲目「げんこつアイランド」や、服部良一メロディとスティーヴィー・ワンダーのR&Bが時空を超えて行き来する7曲目「ラッパとあの娘」など、定番のマッシュアップ曲も冴え渡っている。

白眉は何と言っても、8曲目「ラーメンたべたい」だろう。第1弾『Get Together』、第2弾『ラーメンな女たち』でともにアルバムのラストを飾ったこの曲。矢野と上原はあえて今回も、この曲でライヴを締めることを選んだ。2011年の「ラーメンたべたい」はどこかモダン・ジャズの金字塔「So What」を思わせる、ソフィスティケートされた質感だった。2016年の「ラーメンたべたい」は一転してフリー・ジャズ風。アヴァンギャルドなまでのスピード感で、ぶっ壊れる寸前まで駆け抜けていた。では一体、2024年の「ラーメンたべたい」はどうだろう。前2作のような、はっきりしたコンセプトは感じとれない。だがそこには、心の奥になにかの塊を打ち付けられたような、たしかな重さの感覚がある。装飾がどんどん削ぎ落とされ、より深いところで響き合う矢野顕子と上原ひろみの“会話”。そのシンプルな音が、リアルに伝わってくる気がするのだ。

矢野顕子×上原ひろみの現在地を示す2024年の「ラーメンたべたい」。前2作の愛すべきヴァージョンを思い浮かべつつ、ぜひ耳を澄ましてみてほしい。