こちらでは、2月28日リリースの『エラ・アット・ザ・コロシアム』のライナーノーツからの抜粋をお届けする。


エラ・フィッツジェラルドは事実上、ライヴ・アルバムを発明したと言える。それにふさわしく公式、非公式を問わず、これまでにリリースされた彼女のコンサート録音は、メジャー、マイナー、男性、女性、ジャズ、その他を問わず、実質的に他のどのアーティストよりも多い。新たなエラのコンサート・テープが発掘される度に、彼女が期待を裏切ることは決してない。彼女が最高のパフォーマンスをしていない瞬間は一度もなく、他の演奏家が「今夜はオフ 」と考えるような経験をしたこともないようだ。ある意味、エラ・フィッツジェラルドにとって、毎晩が「真実の瞬間」だったのだ。

1967年夏のコンサートは、エラ・フィッツジェラルドにとって特に興味深い時期に録音されたものである。その1年前、彼女は、実質的に「彼女のために設立されたレーベル」、ヴァーヴ・レコードとの10年に渡る関係を終えていた。同時に彼女は、1965年から1968年まで一貫して続くデューク・エリントンとの実りあるコラボレーションの真っ最中にいた。そして、個人マネージャーでありプロデューサーでもあったノーマン・グランツとのパートナーシップは終わりを迎えようとしていたが、2人は共にユニークな岐路に立っていた。

エラ・フィッツジェラルドとノーマン・グランツ。Photo: Michael Ochs Archives / Getty Images.

1966年7月、フィッツジェラルドはヴァーヴから最後のスタジオ・アルバムとなる『ウィスパー・ノット』を発表した。そして、グランツは彼女のツアーやコンサート出演のマネージメントは続けたが、1972年まで5年以上、一緒に新しいアルバムを作ることはなかった。

エラとエリントンは1966年の大半を共にツアーに費やし、2月に行われた有名なストックホルム・コンサート(1984年にパブロ・レコードからリリース)に記録されているように、この年はヨーロッパからスタートした。夏には、1966年7月末のアンティーブ・ジャズ・フェスティバルで、彼らの集大成とも言えるコラボレーションを録音した。その模様は、1998年にリリースされた8枚組のCDボックス・セット『The Ella Fitzgerald and Duke Ellington Côte d’Azur Concerts on Verve』に収録されている。

フィッツジェラルドが長年住んでいたロサンゼルスのグリーク・シアターで9月に録音されたコンサートがあり、1967年1月にはさらにヨーロッパ・ツアーを行った。アメリカに戻ったエラとエリントンのコンビは、カーネギー・ホール(3月)とハリウッド・ボウル(6月と7月)という大舞台での公演をこなした。これらの録音はデュークの死後、1974年にアルバム『The Greatest Jazz Concert in the World』に収録された。

エラ・フィッツジェラルドとデューク・エリントンの写真
デューク・エリントンとエラ・フィッツジェラルド。Photo: Bettmann.

オークランド・コロシアムで録音された本作『エラ・アット・ザ・コロシアム』は、ロサンゼルスにある大型スタジアムでの2つの公演日の間に行われたものである。グランツは才能のある者には惜しみなく与えるタイプで、立て続けにスタジアム級のコンサートを連発しても、簡単にスタジアム全体を埋めることができると踏んでいた。オスカー・ピーターソン・トリオによるセット、デューク・エリントンとそのオーケストラのセット、そして最後にエラ・フィッツジェラルドのトリオとエリントン・オーケストラのフル・セットである。また、コールマン・ホーキンス、ズート・シムズ、ベニー・カーター、クラーク・テリーをフィーチャーしたオールスター・コンボがあり、おそらくピーターソンのトリオと共演したものと思われる。

トミー・フラナガンは1960年代から70年代にかけてエラのピアニスト兼音楽監督を務めたが、エリントン・ツアーの期間(1965年~1968年)には、すでにサラ・ヴォーンらと幅広く活動していたジミー・ジョーンズが彼女の伴奏を務めるのが通例だった。その年の彼女のベーシストは、ソニー・ロリンズや何十ものクラシック・ハード・バップのセッションですでにその才能を証明していた、注目すべき若手ボブ・クランショウだった。エリントンの長年のドラマー、サム・ウッドヤードは、このコンサートでフィッツジェラルドと兼任した。

この公演に残念な点があるとすれば、エリントン自身がまったく演奏していないことだ。他のほとんどの共演では、エリントンは通常、共演者のために数曲演奏し、少なくとも1曲は自身の曲を演奏した。しかし、それを補填すべき美点があるとすれば、このコンサートには、エラが通常行っているコンサートのセット・リストの曲はほんの少し演っておらず、彼女が公式には録音しなかった同時代のポップ・ソングが満載で、しかも彼女はそれを見事に歌い上げていることだろう。(我々が知る限り、これらの編曲はすべてジョーンズによるものだ)

アルバムは、彼女が言うところの 「新しいもの 」の一つ、「真実の瞬間」で幕を開ける。オープニング曲として極めて素晴らしい選曲だ。この曲は、あまり知られていない作曲家フランク・スコットと編曲者兼トロンボーン奏者のテックス・サターホワイトによるもので、彼女はトニー・ベネットのアルバムでこの曲を知った。ベネットは1963年にこの曲をリリースし、それ以来多くのテレビ・バラエティ番組で歌ってきた。エラ自身も、1966年10月「ザ・ダニー・ケイ・ショー」でこの曲を歌っている。フィッツジェラルドが歌い始める前から、観客の熱狂が伝わってくる。それは、彼女の登場前にサム・ウッドヤードが刻むハイハットが鳴っている間にも感じることができる。「真実の瞬間」は、サミー・カーンとジミー・ヴァン・ヒューゼンがフランク・シナトラのために書いたことで有名な「Songs For Swingin’ Lovers!」的な作品であり、「テンダー・トラップ」や「リンガ・ディン・ディン!」に通じる雰囲気の曲だ。

エラ・フィッツジェラルドがライブで歌った「真実の瞬間」を収録したテープボックス
「Moment of Truth」を収録したテープ ボックス。Photo courtesy of Verve Records.

彼女はテンポを落とし、ジョーンズのスリンキーな伴奏に促されるように「私がストリップをすると思ったでしょう?」と観客に呼びかける。そして、彼女は遅れて来た観客に向かって「最初の曲を見逃したわね!」と言う。1934年のヒット曲 「その手はないよ」は、彼女をチック・ウェッブ時代の思い出へと誘う。編曲家兼作曲家のエドガー・サンプソンは、ウェッブとベニー・グッドマンの両オーケストラのために曲を書いていた。グッドマンは、1938年の歴史的なカーネギー・ホール・コンサートで、自身のバージョンを披露した。フィッツジェラルド自身は、1957年にルイ・アームストロングとの最初のアルバムでミッチェル・パリッシュの歌詞を初めて歌っている。ここでの彼女のパフォーマンスは、ほとんどのビッグ・バンドの演奏よりもスローでブルージーだが、たまらなくスイングしている。

彼女はさらにテンポを落とし、非常に悲しいバラードである1941年の「心変わりしたあなた」を歌う。これは後にフランキー・レインの音楽監督として知られるカール・フィッシャーの作品であり、ビル・ケアリーが作詞した唯一のメジャー・スタンダード・ナンバーである。フィッツジェラルドは、この曲の下降するメロディーを最大限に活用する。これは「レディ・イン・サテン」でビリー・ホリデイによって歌われた有名なメロディーであり、彼女の演奏も同様に圧倒的に感動的である。

フィッツジェラルドは、1928年のブロードウェイ・ショー『Paris』に収録されたコール・ポーターの名曲「レッツ・ドゥ・イット/レッツ・フォール・イン・ラヴ」で、より官能的で遊び心のある歌い方を披露する。彼女はこの曲を1956年の『コール・ポーター・ソングブック』で初めて歌った。エリントン・ツアーの間も頻繁にレパートリーに入っていた。彼女は、詩から始める。ベッシー・スミスがレコーディングしたことで有名な1923年のポップ・ソング「My Sweetie Went Away」や、レスター・ヤングの有名なソロ曲「Sometimes I’m Happy」とメロディに類似性を見出すことができる。フィッツジェラルドは、このヴァースからポーターの歌詞の真髄の一つを何度もコーラスすることで、ポーターの曲の魅力を見事に引き出した。彼女は、ファンキーなオリジナルのメロディラインだけでなく、「ビートルズ、アニマルズ、ソニー&シェール」といったポップ・カルチャー界の人物や、「リチャードとエリザベス(バートンとテイラー)」、「ジェームズ・ボンド007」などへの言及を加え、この曲を拡張した。1964年に亡くなったポーターは異議を唱える立場になかったが、彼がこの曲を気に入っていなかったとは想像できない。

「バイ・バイ・ブラックバード」は、どうやら観客の一人が彼女に飲み物を差し出したところから始まる。彼女は「飲んではいけないわ。誰かが私がディーン・マーティンの妹だと思うかもしれないから!」と答える。おそらく明らかな文脈がある。この時期、フィッツジェラルドは「ザ・ディーン・マーティン・ショー」の常連ゲストであった。数秒後、マイクを通さない男性の声(おそらくジョーンズ)が何か言っているのが聞こえる。彼女はクスクス笑いながらこう続ける。「新しい曲が演目に加わったわ。それがディーンと仕事をした成果よ!」

「ブラックバード」は、フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンのようなジャズ・シンガーが日常的にセットに入れていた1926年の由緒あるスタンダード曲だが、多くのシンガーはこの曲をただ駆け足で歌い、基本的には手っ取り早く済ませる「チェイサー 」的な曲である。対照的にフィッツジェラルドは「バイ・バイ・ブラックバード」をじっくりと聴かせ、こだわって本気で歌う。ツアーに出てコロシアムのような華やかな会場で歌うのが好きなのと同じくらい、彼女は愛する人たち、特に息子のレイ・ブラウン・ジュニアと一緒に家にいることを大切にしている。彼女は、8小説毎の最初の音、“Packed up all my cares and woes…”、“Where somebody waits for me…”を強調する。2番目のコーラスでは、さらに自発的になり、セクションを省略したり、自分の裁量で言葉を変更したりする。「鳥よ、失せろ!(“so bird, get lost!”)」と叫ぶ3番目のコーラスはほとんどスキャットであり、ドラマチックに引き伸ばされ、さらにメロディーの改変を行っている。 

残念なことに、フィッツジェラルドはこの時代の最も重要なヒットメーカー・チームであるバート・バカラックとハル・デヴィッドの曲を数曲しか歌っていない。「素晴らしき恋人たち」(ストックホルム、1966年)や「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」(モントルー、1969年)などの素晴らしいコンサート録音がある。本作にはフィッツジェラルドが、ハルとバートの最も偉大なラブソングを演奏した唯一の音源が収録されている。待った甲斐があったと言うものだ。 「アルフィー」は、心に響く、彼女のバラード・レパートリーの中でも最も素晴らしいものだ。ラヴ・ソングやトーチ・ソングを歌う歌手として、エラは同世代のホリデイやシナトラと同じクラスにいたことを立証している。もしグランツが『Ella Fitzgerald Sings the Bacharach-David Songbook』をプロデュースすることに成功していたら、それは彼女がこの時期、キャピトル・レコードで作っていたどのアルバムよりもはるかに優れたものだっただろう。彼女はこの特別な曲の冒頭で、コロシアムの照明技術担当者に向かって静かにこう言う。「セクシーなライトをお願いね、ダーリン」

「アルフィー」は、フィッツジェラルドの有名な「仕掛け」(60年代から70年代へ向かうにつれて、彼女がますます採用するようになった)が盛り込まれた数曲のうちの最初の曲である。それは、コーダすなわち曲の結末に向かう途中で予期せぬ方向へ進む、という仕掛けだ。「You’re Nobody ’til Somebody Loves You 」が好例だ。彼女が最後の音符を打つと、観客の熱狂的なファンが大声で「これが好きなら、拍子を!」と叫ぶ。私たちは彼に賛同せざるを得ない。 2024年、アップタウンのアパートで一人寂しく拍手をしている自分に気付く。そして、それはフィッツジェラルドをくすくす笑わせ、彼女は感謝の意を表するのである。

「イン・ア・メロー・トーン」はエリントンのジャム・セッションのスタンダードで、彼女の長年のプロデューサーであり友人でもあるミルト・ゲイブラーが作詞している。2コーラス目には、予想どおりのスキャット・ソロがあり、フィッツジェラルドのダンスへの愛が、他のどの曲よりも良く表れている。ここでの彼女の即興演奏は、まさに言葉による舞踏というより他なく、ほとんどの歌手が実際に言葉にするよりも、彼女は純粋な気持ちと圧倒的なエネルギーでスキャットしている。エラ・フィッツジェラルドは、何事も当然の事として受け取らない事を知って欲しい。それがナンセンスなものであったとしても。

「アルフィー」同様、フィッツジェラルドが1966年のボブ・クルーによるヒット曲「恋はリズムにのせて」を演奏した例は、今のところこのレコーディングしか知られていない。この曲は、私たちのほとんどがバカラックかハーブ・アルパート、あるいはその両方によるものであると思い込んでいるが、実際にはあまり知られていないシド・ラミンによる作品である。トニー・ヴェローナの歌詞はアンディ・ウィリアムズによって広く知られるようになったが、後者に敬意を表しつつも、フィッツジェラルドほどエネルギッシュで情熱的に歌った人はいない。これは、1930年代から1990年代までのフィッツジェラルドが、ある楽曲をそれ以上のものに仕立て上げた多くの例の一つである。そしてミュージカル『南太平洋』が上演された1949年、彼女がレコーディングしたロジャース&ハマースタインの「ハッピー・トーク」は、特に楽しい寄り道である。

彼女はコンサートを 「マック・ザ・ナイフ」で締めくくった。ここまで全力を尽くしてきたフィッツジェラルドは疲れきっているかと思いきや、彼女はまだ咲いているデイジーのようにフレッシュなまま、これまでで最もエネルギーに満ちたナンバーへと突入する。1960年ベルリンで、フィッツジェラルドが1928年のベルリン劇場の劇中歌を象徴的にパフォーマンスしたライブ録音を聴いた人の中には、彼女は歌詞を忘れて、即興で新しい歌詞を作ったと考える人がいた。しかし、それは意図的に行っていた事であり、その卓越した技術もまた同様に本物であった。少なくとも、彼女が歌詞を忘れたという証拠はない。1967年まで、彼女はフルのビッグ・バンドの伴奏でその曲を歌っていた。フィッツジェラルドのバージョンには、ボビー・ダーリンのブロックバスター・シングルのような無慈悲な変調は含まれていないが、ダリンへの愛情のこもった言及やルイ・アームストロングへの愛情深いオマージュなど、興奮に事欠かない。

コンサートの最後、締めくくりのアナウンスで疲れている様に聞こえるには、フィッツジェラルドではなくノーマン・グランツであった。恐らくエラは、スタジアムでの巨大オールスター・パッケージの一部であったため、クラブで期待されるような2セット回しをやる必要がないことに安堵していた事だろう。実際、彼女はもう1時間以上かけてあと15曲くらいは簡単に歌い続けられるようなやる気満々であるように聞こえる。もしセカンド・セットがあったなら、それは同じくらいに素晴らしいものであっただろう。

前述したように、これがエラ・フィッツジェラルドにとっての「真実の瞬間」であった。が、彼女にとっては毎晩が真実の瞬間だったのである。

ジャズ歌手エラ・フィッツジェラルドがバンドとともにサンフランシスコでライブ演奏中。
エラ・フィッツジェラルドとバンド。1966年。Photo: Tom Copi. Courtesy of Verve Records.


ウィル・フリードヴァルドは『A Biographical Guide to the Great Jazz and Pop Singers』、『Stardust Melodies: The Biography of Twelve of America’s Most Popular Songs』、『Jazz Singing: America’s Great Voices from Bessie Smith to Bebop and Beyond』、『 Sinatra! The Song Is You; and Tony Bennett: The Good Life (with Tony Bennett)』 など9冊の本の著者である。

ヘッダー画像: エラ・フィッツジェラルド。Photo: Photopress Archiv / Keystone / Bridgeman Images.