ジャズは人生と同じように「もしも」の連続だ。そして、音楽界の巨人でありビ・バップの先駆者であるセロニアス・モンクの名高いソロ・キャリアは、ブルーノート・レコードがなかったら実現しなかったのではないか、と考えずにはいられない。

1947年初頭、30歳の誕生日を迎えたモンクは、10年以上に渡るインスピレーションに満ちた演奏と作曲活動を続けてきたにもかかわらず、自分の時代はもう終わってしまったのではないかと感じていた。マイルス・デイヴィス、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカーがニューヨーク52番街で賞賛を浴びていたが(彼らはインタビューでしばしばモンクに言及していたが)、生粋の誇り高きニューヨーカーであるモンクにとっては屈辱的な状況だった。

しかし、ここで潮目が変わる。友人でピアニスト仲間のメアリー・ルー・ウィリアムスからの情報提供を受け、ジャーナリストで写真家のビル・ゴットリーブがダウンビート誌の表紙を飾るためにモンクを取材したのだ。 「セロニアス・モンク – バップの天才」は1947年9月24日号に掲載された。この記事が掲載された後、ブルーノートのA&R担当であり、ソロ・アーティストでもあったアイク・ケベックが、レーベルの共同設立者であるアルフレッド・ライオン(後にヴィレッジ・ヴァンガードのオーナー、マックス・ゴードンと結婚するロレイン・ライオンと共に)をモンクの住む西63丁目のアパートへと案内した。

フランシス・ウルフによるジャズピアニスト、セロニアス・モンクの白黒写真。
セロニアス・モンク。1951 年 7 月。Photo: Francis Wolff / Blue Note Records.

モンクの狭い寝室で、ライオン夫妻はフル尺のピアノ・ソロを聴いた。「ラウンド・ミッドナイト」、「ホワット・ナウ」、「ルビー・マイ・ディア」、そしていくつかのタイトル未定の曲が披露された。モンクは見事にこの“オーディション”を突破したが、ライオン夫妻はモンクの音楽に魅了されすぎて、なんと2週間以内にレコーディングを行いたいと申し出た。

問題は、誰がモンクと一緒にレコーディングするか?だった。彼のレギュラー・ベーシストであるジーン・レイミーと、親友でドラマーのアート・ブレイキーは当然の人選だった。しかし、選ばれたホーン・セクションは、レコーディング・スタジオに足を踏み入れたことのない若いプレイヤーたちだった。テナーのビリー・スミス、アルトのダニー・ケベック、トランペットのイドリース・スリーマンという顔ぶれである。

彼らはモンクの寝室に集まり、激しいリハーサルを行った。主に1940年代初期に西118丁目にあったミントンズ・プレイハウスで作曲された曲を演奏した。当時、モンクはドラマーのケニー・クラークと共にハウス・バンドとして演奏していた。

これらの傑作のいくつかは、モンクの有名な「ハーフ・ディミニッシュ・コード」を特徴としており、「トライトーン」または「フラット・フィフス」を巧みに取り入れていた。この複雑な不協和音の響きは、初心者や保守的な聴衆(「スクエア」と呼ばれる人たち)を近寄らせない一種のフィルターの役割を果たした。

【編集部註:ディミニッシュ・コードの重要な要素であるトライトーンは、全音3つ分(全音階で6度)の間隔を持つ2つの音の響きである。この音程は、明るくニュートラルな響きを持つ「完全5度」からわずか半音ずれた位置にある。そのため「完全」には至らない、どこか不安定な響きを持ち、それが独特で金属的な響きを生み出す。このように通常の調性音楽では珍しい音程であるため、クラシック音楽の世界ではしばしば「悪魔の音程(ディアボリクス・イン・ムジカ)」と呼ばれることもある】

セロニアス・モンク、ハワード・マッギー、ロイ・エルドリッジ、テディ・ヒル、ミントンズ・プレイハウス、ニューヨーク、ニューヨーク州、1947 年 9 月頃。この画像は、ダウンビート誌の記事「セロニアス・モンク – バップ界の天才」に掲載されている。Photo: William P Gottlieb / Library of Congress.

その9日後、モンク、レイミー、ブレイキーはトリオ編成で「パリの四月」、「ルビー・マイ・ディア」、「ウェル・ユー・ニードント」、「オフ・マイナー」を録音した。続く3回目のセッションは1947年11月21日に行われ、モンクはトランペットにジョージ・テイト、アルトとバリトンにサヒブ・シハブを迎えた。さらに1948年7月2日のセッションでは、ビブラフォン奏者でソリストのミルト・ジャクソンが加わり、エイペックス・スタジオでさらなるレコーディングが行われた。

こうして誕生したのが、4回のブルーノート・セッションを集めた『ジニアス・オブ・モダン・ミュージック』である。このアルバムは、今なお新鮮な驚きを与える内容であり、モンクの卓越した空間感覚、ユーモアのセンス、不協和音への愛、卓越した技巧、そしてエンターテインメントへの情熱が際立っている。まさにアメリカ音楽史の転換点となった作品だ。イギリスの詩人フィリップ・ラーキンは自著『All That Jazz』の中で、このアルバムを次のように評している。

「予測不能で、時に突飛。しかし、最高に自信に満ち溢れている」

当時のブルーノートのマーケティング部門はロレイン・ライオンが主導し、モンクのエキゾチックで予測不可能な側面にフォーカスを当て、「バップの高僧(The High Priest of Bop)」というキャッチフレーズでプロモーションを行った。この戦略には賛否両論あったが、ブルーノートはモンクのプロモーションを大々的に行った。しかし、当初はなかなかレコードが売れなかった。1948年はモンクにとって最も多忙な年となり、私たちはこの「現代音楽の歴史的金字塔」を受け継ぐことができるのだ。


マット・フィリップスはロンドンを拠点とするライター兼ミュージシャンで、その作品はJazzwise、Classic Pop、Record Collectorに掲載されている。著書に『John McLaughlin: From Miles & Mahavishnu To The 4th Dimension』、『Level 42: Every Album, Every Song』がある。


ヘッダー画像: セロニアス・モンク。Photo: William P. Gottlieb/Ira and Leonore S. Gershwin Fund Collection, Music Division, Library of Congress.