『Sun Bear Concerts』(1978年)には、キース・ジャレットが1976年11月に行った日本の7都市を巡る計8回のソロ・コンサートの中から、京都、大阪、名古屋、東京、札幌の各都市での録音が収められている。10枚組のLPでリリースされ、その後に6枚組のCDでもリリースされた。アンコールの演奏が追加収録されたCDで聴くと、トータルの再生時間は6時間34分にもなるが、ノンストップの即興演奏による各公演の1曲の長さも30分から45分に及ぶ。
ジャレットがこのスタイルの演奏を最初に行ったのは、1973年のヨーロッパ・ツアーだった。このツアーから、ドイツのブレーメンとスイスのローザンヌでの録音がアルバム『Solo Concerts: Bremen/Lausanne』(1973年)として3枚組のLPにまとめられた。ブレーメンの演奏は18分と45分の2曲で、ローザンヌの演奏は1時間5分の1曲だった。これらの完全即興による長時間の演奏については、ジャレットに話を訊き、一冊の本にまとめたイギリスのトランペッター、イアン・カーによる説明が最も簡潔で的確だろう。
「二つのソロ・コンサートはジャズの歴史においてだけではなく、ピアノの歴史においても前例のないものであった。それはあらかじめ作曲された曲を暗譜で演奏するというものでもなく、作曲されたテーマに基づく一連のヴァリエーションでもなかった。それは非常に長い時間連続する(1回が1時間にも達する)完全なインプロヴィゼーション、ゼロからあらゆるもの、リズム、テーマ、ストラクチャー、ハーモニック・シークエンス、テクスチャーといったものを創造するという企てであった」(※1)
バラードもブギも無調のトーン・クラスターも一繋がりの流れに登場する演奏は、確かにピアノ・ソロなのだが、聴く者に様々な音楽の記憶を想起させた。シリアスな即興演奏というだけでは説明し難い、軽快さや馴染み易さもあった。「明らかに親しみを感じるものが、まったく予想もしないものと一緒に並べられているという安心感」が、ジャレットのコンサートを素晴らしいものにしているとカーは指摘した。
デジタル環境で制作された音楽を経た、いまの耳で聴くならば、このピアノ・ソロは時に巧妙かつ精緻に編集された演奏のようにも聞こえてくるのだが、だからこそ、完全即興のみで成立していることは驚きを与えるだろう。また、この70年代前半に、かつてジャレットも参加したマイルス・デイヴィスのグループが示したように、ファンクやロック、あるいはミニマル・ミュージックやエレクトロニック・ミュージックにおける長尺の演奏との繋がりを聴くこともできる。ジャレット本人は、エレクリック・マイルスに関わったミュージシャンとしては例外的にフュージョンとは距離を置き、エレクトロニック・ミュージックにも否定的であり、厳密にアコースティックなサウンドを好んだ。そうであっても、『Sun Bear Concerts』の演奏は、時代を超越した表現というような茫漠としたものではなく、同時代性も織り込んでいる具体的な表現だ。それは、人が独創的であろうとすることを戒めて「ユニークであることは自己中心的なことである」と述べたジャレットのスタンスの顕れでもあるだろう。
プロデューサーとして日本の全公演に同行したマンフレート・アイヒャーが指摘しているが、『Sun Bear Concerts』にはフィリップ・グラスやスティーヴ・ライヒのようなミニマル・ミュージックの反復性がある。それは、冒頭の京都での録音(Part 1)にまず明確に顕れていて、各公演でも演奏の基調の一つを成している。東京での録音(Part 2)の中盤からはより研ぎ澄まされたエレクトロニクスのような響きのミニマリズムを聴くことができる。また、札幌での録音(Part 1とアンコール)には、まるでループをオーバー・ダビングで重ねているかのようなテクスチャーが展開される。しかしながら、それらは一つの側面に過ぎない。オスティナート技法のブギやヴァンプにも繋がり、さらに演奏はバラードに滑らかに変化したり、東欧や南欧の民族音楽のフレーズにも引き継がれ、バロックやゴスペルに接続されてもいく。
『Solo Concerts: Bremen/Lausanne』と『Sun Bear Concerts』の間には、ジャレットの名を広く知らしめることになったヒット作『The Köln Concert』(1975年)のリリースがあった。長距離の移動と睡眠不足による体調不良のまま、誤ってセッティングされた不備のあるピアノで演奏されたという、曰く付きのアルバムでもある。この演奏について、カーは「畏敬の念を呼び起こすような華々しさはないが、実に素晴らしいぬくもりと親しみがある」と評し、ジャレット自身は「他のライヴ・ソロ・レコーディングにくらべるとプロセスの表現はずっと少ない」と述べている。ジャレットは、『The Köln Concert』が売れた理由を冷静に分析し、その演奏には音楽上のロジックがあるが、演奏のリアリティにはいつもロジックがあるわけではないことを指摘する。つまり、『The Köln Concert』にはスムーズな流れはあってもリアリティに繋がる飛躍はなく、それは自分が求めるプロセスを表現し切れていないというのだ。
また、『Sun Bear Concerts』のリリースを経て、音楽ジャーナリストで後に作家として『心臓を貫かれて』を著したマイケル・ギルモアが行ったインタビューでは、以下のように述べている(※2)。既に世界的な名声を得て、ソロ・コンサートを満員にする動員力も誇っていた、当時33歳のジャレットはここでも極めて冷静だ。
「感情を伝えるというのは、音楽の最も粗雑な使い方だ。エネルギーの透明感を伝えるというのは、音楽としては最高の使い方だと思う。感情というものには既に色が付いている……」
「正当な理由で売れたらいいと思うものがあるとしたら、それはあのセット(『Sun Bear Concerts』のLPセット)だ。あのセットを録音したときは、まさしく探求をしていた時期で、音楽自体が探求のためのリリースに近いものだった。ずっと考えていたが、『Sun Bear Concerts』は人間の感情の域を駆け抜けた唯一の録音だ。そのことをよく知ってもらえれば、どこかで全てを見つけられると思う」
音楽が感情に安易に訴えるものへと変転することは、ジャズのみならず、クラシックからエレクトロニック・ミュージックに至るまで、そのサブジャンルである現在のポスト・クラシカルやエレクトロニカにおいても見て取ることができる。だからこそ、ジャレットのピアノ・ソロは参照すべき在り方として、ジャンルを超えて多岐に渡って影響を及ぼしてきた。『Solo Concerts: Bremen/Lausanne』と『Sun Bear Concerts』、そして、『The Köln Concert』に続いてリリースされた『Staircase』(1977年)も含めて、この時代のジャレットのピアノ・ソロは、過度の展開やハーモニーを排し、時にリズムのみでも成り立たせ、テクスチャーと音色、それにソノリティを尊重した。とりわけ、『Sun Bear Concerts』はその演奏の到達点を示している。
今回、『Sun Bear Concerts』を、ハイレゾ音源とリイシューされたレコードの両方で聴き直すことができた。ハイレゾ(あるいはCD)であれば、一つのパートを中断なく聴くことができ、レコードであれば全てアナログ・マスタリングのプロセスを経た音源で聴くことができる。厳密に比較できる聴取環境ではないのを前提に述べるが、カーのいう「親しみ」とジャレットのいう「エネルギーの透明感」をよりレコードの再生に感じた。特別で圧倒的な存在感のパッケージに包まれたレコードというフィジカルのメディアがもたらすバイアスが作用しているかもしれないが、それも音楽を聴く愉しみの一つである。
※1:イアン・カー著『キース・ジャレット 人と音楽』
※2:Keith Jarrett’s Keys to the Cosmos
https://www.rollingstone.com/music/music-news/keith-jarretts-keys-to-the-cosmos-105083/
【リリース情報】
Keith Jarrett / Sun Bear Concerts
※全世界:2,000ボックス限定。シリアル・ナンバー付き。
※オリジナル・マスターテープからのオール・アナログ・マスタリング。
※1978年に初版発行されたオリジナル版の復刻。16ページのオリジナル冊子の復刻版を含む
※ドイツの歴史ある製紙工場の紙のみを使用した手づくりパッケージ
※深緑の印刷の上にオリジナルECMクラシック・シルヴァー・ロゴを載せたレーベル面
Header image: Keith Jarrett. Photo: Kishin Shinoyama / ECM Records.