クリフォード・ブラウンは、1950 年代のジャズ界では異端児だったが、それは彼の卓越した音楽的才能のためだけではない。彼は数学の学位を持つ勉強熱心な人物だった。また、チェスの名人でもあり、他の多くのミュージシャンとは対照的に、酒やドラッグとは無縁のクリーンな生活を送っていた。

当時のジャズ界を代表する奏者のひとりとして、ブラウンはますます腕を磨き、音楽的な成長は魅力的だった。彼はファッツ・ナヴァロからバトンを受け継ぎ、誰もが憧れる演奏法を生み出した。ナヴァロとブラウンが登場する前、トランペット奏者はディジー・ガレスピーやロイ・エルドリッジのような演奏を望んだ。しかし、ディジーのようなビバップの表現をマスターしたナヴァロは、それをより独特で現代的なものに作り変えた。彼の即興演奏は機敏でありながらも音色はより厚く、音の着地の仕方も異なっていた。これによりナヴァロは真に独創的なトランペット奏者として際立ち、ブラウンにインスピレーションを与えた。ブラウンはナヴァロのアイディアをさらに発展させ、より長いメロディで独自のスタイルを開拓し、後にハード・バップとなるものを形作った。

1953 年の2 回のレコーディング・セッションから集められた『メモリアル・アルバム』に話を移そう。1 度目は 6 月にサックス奏者のルー・ドナルドソンと共同で行ったセッション、2回目は 8 月にブラウンがバンド・リーダーとして初めて行ったセッションである。これらのレコーディングは、ブラウンがマックス・ローチと組んだ影響力のあるクインテットの直前、またジャズ・メッセンジャーズの核となったバードランドでアート・ブレイキーのクインテットと共演する前のことだった。これらのプロジェクトはどちらもハード・バップ・サウンドの先駆者であり、『メモリアル・アルバム』は音楽的変遷の興味深い節目に位置付けられている。

たとえば、ブラウン作曲の「マイナー・ムード」は、彼がリーダーを務めた日に録音された。この曲は、当時のビバップやショーチューンから、よりブルージーでマイナー・キーに近い感覚へのハーモニーの転換を告げる曲だ。モダン・ジャズ・カルテットのジョン・ルイスが室内楽風のピアノ・イントロを奏で、ブラウン、アルト奏者のジジ・グライス、テナー奏者のチャーリー・ラウズが、素晴らしく物憂げなソロを奏でる雰囲気を醸し出した。アート・ブレイキーはこのヴァージョンで、抑制の極みを見せ、支えつつもスウィングしている。彼らが慣れていたスピードに比べると、テンポはかなり遅く、今後さらにスローなスタイルが続くことを示唆している。

ルー・ドナルドソンはブラウンについてこう語った。「彼はまるでトランペットを手にして生まれてきたかのようだった。彼は夜明けまで力強く演奏することができた。他のミュージシャンはその時間帯には弱くなり始めるが、彼はそうではなかった。その点ではルイ・アームストロングに似ていた。ある夜、私たちは彼が音を外すのを待ったが、彼は決して音を外さなかったんだ!」

ブラウンは短いキャリアの中で多くのことを成し遂げており、この点で彼のすべてのレコードは称賛されるべきである。『メモリアル・アルバム』は、全盛期に悲劇的に亡くなった、並外れた才能を持ったミュージシャンへの別れであるかもしれないが、同時に、その後のサウンドの先駆けであり、クリフォード・ブラウンが生きている間、常に進化する音楽の最前線にいて、その進路に大きな影響を与えたことを思い出させてくれ。

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マックス・コール

デュッセルドルフを拠点とするライター兼音楽愛好家で、Straight No Chaser、Kindred Spirits、Rush Hour、South of North、International Feel、Red Bull Music Academy などのレコードレーベルや雑誌に寄稿している。


ヘッダー画像: クリフォード・ブラウン Photo: Francis Wolff/Blue Note Records