正真正銘のジャズ界の生ける伝説と、ライス&ピーズのプレートを一緒に食べる機会なんてそうそうあることではない。2015年7月、私はニューヨークで、フリー・ジャズ、詩、ダンスのアヴァンギャルドなショウケースであるヴィジョン・フェスティバルの20周年記念イベントに参加していた。その年のフェスティバルは、グリニッジ・ヴィレッジのワシントン・スクエア・パークに隣接する19世紀の壮大な建造物、ジャドソン記念教会で開催された。ライブは教会の巨大なホールで行われたが、階下にはTシャツやCDを売る屋台や、紙皿に盛られたおいしいジャマイカ料理を売る屋台が並ぶカジュアルなスペースがあった。ここではヴィジョンのコミュニティー精神に則り、観客とミュージシャンが気軽に交流し、一緒に食事をしていた。こうして私は、ジャズ史上最も影響力のある、そして謎めいたベーシスト、ヘンリー・グライムスの向かいに座ることになった。

 穏やかで物静かな彼は、気高く超越した雰囲気を醸し出していた。テーブルの周りで弾む会話が飛び交う中、彼は穏やかに、唇には謎めいた笑みを浮かべ、少し遠い眼をしながら食事を摂っていた。彼の妻、マーガレットがずっと話していたが、その間、彼は一言も話さなかったと思う。私はこの光景に妙に納得していた。2010年、私はイギリスのサックス奏者ポール・ダンマルにインタビューした。彼は当時、グライムスとドラマーのアンドリュー・シリルと一緒にプロファウンド・サウンド・トリオを組んでいた。彼は私にこう語った。「ヘンリーはあまり多くを語らないんだ。彼はとても物静かで穏やかな人だよ。演奏するのは大好きだけど、とても穏やかで内向的なんだ。彼は興味深い人生を送ってきたんだ」それは控えめな表現であると言わざるを得ない。

ヘンリー・グライムス。Photo: Francis Wolff / Blue Note Records.

 1935年にフィラデルフィアで生まれたグライムスは、1950年代半ばまでに非常に熟練した多才なコントラバス奏者として頭角を現した。1958年のニューポート・ジャズ・フェスティバルでは、22歳の若さにして、ベニー・グッドマン、リー・コニッツ、セロニアス・モンク、ジェリー・マリガン、ソニー・ロリンズ、トニー・スコットらが率いる6つの異なるグループと共演した。1960年代初頭までには、コニッツ、マリガン、ロリンズ、モーズ・アリソンなどとレコーディングを行い、ドラマー、ロイ・ヘインズの1962年の名盤『アウト・オブ・ジ・アフタヌーン』や、ソニー・ロリンズが1963年にコールマン・ホーキンスと共演した『ソニー・ミーツ・ホーク』など、不朽の名盤に貢献している。

 同年、彼はマッコイ・タイナーのセカンド・アルバム『リーチング・フォース』で、ロイ・ヘインズと、ブルースを基調としたハードなピアノを奏でるタイナーと共にトリオとしてレコーディングを行った。グライムスがハード・スウィングでメロディアスな環境に馴染んでいることは、最近発掘された1966年にニューヨークのクラブ、スラッグスで行った公演を収録した未発表音源アルバム『フォーシズ・オブ・ネイチャー:ライヴ・アット・スラッグス』を聴けば明らかだ。このアルバムには、タイナー、サックス奏者のジョー・ヘンダーソン、ドラマーのジャック・ディジョネットとともに、猛烈に推進力のある当時最先端のクラブに臨む強気な彼の姿が収められている。

 しかし、正統派ベーシストとして注目を集めると同時に、グライムスはニューヨークで盛り上がりつつあったフリー・ジャズ・シーンに魅了され、積極的に活動するようになっていた。1964年には早くもアルバート・アイラーとレコーディングを行っている。1965年と1966年には、「ホエア・イズ・ブルックリン?」を含む決定的な3曲をドン・チェリーと制作した。また1966年には、セシル・テイラーによるフリー・ジャズの礎となる2つの重要なレコーディング『コンキスタドール』と『ユニット・ストラクチャーズ』に参加した。60年代の終わりには、ファラオ・サンダースやアーチー・シェップとのさらなるレコーディング、そして1966年にESPディスク・レコードからリリースされた彼自身の名義での冒険的なトリオ作品『The Call』によって、アバンギャルド・ジャズの重要人物としての彼の名声は確固たるものとなった。

ヘンリー・グライムスとドン・チェリー。Photo: Francis Wolff / Blue Note Records.

 しかしその後、グライムスはすべてからあっさりと足を洗ってしまった。精神的な問題を抱え、ペースの速いニューヨークのシーンについていくのが次第に難しくなってしまったのだ。生き延びるため、彼はカリフォルニアに移り住み、散発的なホームレス生活と双極性障害の治療という長く孤独な流浪生活を始めた。ジャズ界との接触が絶たれ、かつての音楽仲間の多くは、彼が死んだものと思っていた。そして2002年、ロサンゼルスで貧しく暮らしながら詩を書き、雑用をこなして何とか暮らしているところをファンに発見された。彼はかつての音楽人生とはまったく無縁の生活を送っていた。アルバート・アイラーが1970年に亡くなったことさえ知らなかった。しかし、彼はまた演奏したいと熱望していた。

 こうして、史上最も注目すべきカムバックの一つが始まった。ベーシストのウィリアム・パーカーがグライムスにコントラバスを寄贈し、30年の無名生活を経た2003年、グライムスは再び演奏活動を始めた。彼はアバンギャルド・ジャズ界から帰ってきた英雄として熱狂的に迎えられ、ヴィジョン・フェスティバルに華々しく凱旋出演を果たした。その後15年間に渡り、ラシッド・アリ、マーシャル・アレン、ビル・ディクソン、ロスコー・ミッチェル、ジョン・チカイと言ったフリー・ジャズの巨匠たちと共演し、精力的にツアーや公演を行った。さらに彼はリーダーまたは共同リーダーとして7枚のアルバムをリリースし、マーク・リーボウやウィリアム・パーカーらとレコーディングも行った。それは彼の若かりし日の期待を全て実現した輝かしい成果であった。

 このあり得ない第三幕は、2018年にパーキンソン病の影響で演奏活動を休止せざるを得なくなり、ついに幕を閉じた。そして2020年、新型コロナウイルスの合併症により84歳で死去した。しかし彼の数奇な人生は、回復力、止めることの出来ない創造への衝動、そしてコミュニティを育む力の証となっている。私たちがライス&ピーズを頬張っているとき、彼が何を考えていたのか聞いておけば良かったと、私は今も後悔している。


ダニエル・スパイサーは、ブライトンを拠点に活動するライター・放送作家・詩人で、The Wire、Jazzwise、Songlines、The Quietusなどに寄稿している。トルコのサイケデリック・ミュージックに関する本や、Jazzwiseのアーカイブから記事を集めたアンソロジーの著者でもある。


ヘッダー画像: ヘンリー・グライムズ。Photo: Alan John Ainsworth / Heritage-Images.