それにしても2023年はどうかしている。神は“巨星墜つ”という言葉を減価償却しようとしているのか、偉大な才能があまりにも旅立ちすぎている。サックス奏者/作曲家のウェイン・ショーターが現地時間の3月2日、カリフォルニア州ロサンゼルスで他界した。
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ウェイン・ショーターは1933年8月25日、ニュージャージー州ニューアークで生まれた。年子の兄にフリージャズ系のフリューゲルホーン奏者、アラン・ショーター(1932~88)がいる。粘土細工や絵を描くことが大好きな子供だったが、16歳からクラリネットのレッスンを開始。間もなくディジー・ガレスピー・オーケストラのコンサートで「シングス・トゥ・カム」を聴いてビ・バップ(モダン・ジャズ)に開眼、テナー・サックスを手がけるようになった。アマチュア・グループでビ・バップの演奏に明け暮れていた頃、ソニー・スティットのマネージャーから打診を受けて、彼の背後でアンサンブルをつけたこともある。“地元にすごい若手がいる”という噂をききつけたサヴォイ・レコード(本社がニューアークにあった)も契約に動くものの、それが締結されることはなく、ハイスクール卒業後はミシン会社に就職した。しかし音楽への情熱は断ち切れなかったということか、52年にニューヨーク大学に入学、音楽教育学の学位を得て56年に卒業した。この間の見逃せないトピックに“レスター・ヤングとの共演”、“西海岸でのジミー・ロウルズやビル・ホルマンとの出会い”がある。
初レコーディングもこの時期にピアニスト、ジョニー・イートンのグループで経験。今なお作品単位では発表されていないが、とあるウェブサイトでは「恋とは何でしょう」の一部を聴くことができる。“まるでウォーン・マーシュ! でも、もつれるような、ピチャッとしたタンギングは、すでにショーターだ”というのが、それに接した筆者の第一印象。ちなみにイートンはイエール大学在学中にワルシャワ生まれの作曲家アレクサンダー・リプスキーに師事した経歴を持つ。ダリウス・ミヨーに学んだデイヴ・ブルーベックに続く知性派ピアニストとして、当時のコロンビア・レコードが売り出しをかけていた。
ニューヨーク大学卒業後は徴兵にとられるが、57年秋頃には短期間だがホレス・シルヴァーのグループに参加(ハンク・モブレーの後任、クリフォード・ジョーダンの前任)。ミュージシャン活動が全開するのは、兵役を終えてニューヨークに戻ってからだ。“セロニアス・モンクがサックス奏者を探している”との知らせを聞いて電話したものの時すでに遅し、チャーリー・ラウズが選ばれた後だったが、マイルス・デイヴィス・セクステット在籍中のジョン・コルトレーンと出会い、ジャズ・クラブ「バードランド」で腕を磨いたのもこの時期のことだ。59年にはメイナード・ファーガソンのオーケストラで演奏し、夏になるとアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ(以下JM)に移籍。ファーガソンの許での演奏を気に入ったJMのトランペット奏者リー・モーガンが、ドラッグ禍のため塀の中に入ることになったハンク・モブレーの後任として誘い入れたと伝えられる。59年8月25日にはJM名義の『アフリケイン』とウィントン・ケリー名義の『ケリー・グレイト』のレコーディングに参加、前者では3月に他界したレスター・ヤングを偲んだオリジナル曲「レスター・レフト・タウン」がとりあげられている。
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ショーターはJMで潜在能力を大いに開花させながら、ヴィー・ジェイ・レコードに次々とリーダー・アルバムを録音する。JM作品もヴィー・ジェイ盤も彼のオリジナル曲が大半を占め、その楽想は斬新でありつつも妙にキャッチー。いろんなアイテムを聴き返すごとに、多作ぶりと質の高さに驚嘆させられる。
マイルス・デイヴィスのレコーディングに初めて参加したのは、62年8月のことだ(編曲はギル・エヴァンス、歌はボブ・ドロー)。マイルスがいつショーターの存在を知ったのかは定かではないものの、59年の歴史的傑作『ジャイアント・ステップス』録音の頃からコルトレーンはマイルスの許から独立することを考えていて、辞める時にはぜひショーターを後任に迎えてほしいと勧めていたという。けっきょくこの時はマイルスが「俺の人事に口を出すな」とキレたようだが(コルトレーンは60年春に独立、後任は社会復帰したハンク・モブレー)。64年秋、ショーターはマイルスの誘いを了承した。リズム・セクションはハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス。ここに“マイルス・デイヴィス、至高の60年代クインテット”が誕生する。ショーターのイマジネーションはとどまるところを知らず、JM時代の創作は55年のグループ結成以来のカラーを守りながらも節度を守って自身の色を付け加えていく感じだったのに、マイルス・クインテットではもっと飛躍、冒険の翼を一切の躊躇なく思いっきり広げている感じだ。“リズム・セクションにのって管楽器がアドリブを演奏する”パターンを、“管楽器が一定のメロディを繰り返すなか、リズム・セクションが自在に即興する”状態にひっくり返す試みは少なくとも「ネフェルティティ」(6月7日)、「ピノキオ」(7月19日)の二度にわたって行なわれ、最終的に前者が採用された(アルバム『ネフェルティティ』)。
ショーターはまた、JM末期~マイルス・クインテット初期にブルーノート・レコードとリーダー契約を果たしている。レパートリーの自作自演率はヴィー・ジェイ時代よりもさらに高まり(数少ない例外のひとつがジミー・ロウルズ作「502ブルース」)、共演メンバーの選択も抜群、テーマ・メロディもアドリブもスリルいっぱい、というジャズファンには夢のような作品群が続く。『スピーク・ノー・イーヴル』の「ダンス・キャダベラス」、『ジ・オール・シーイング・アイ』の「メフィストフェレス」あたりまさに、音による甘美な退廃である。
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マイルス・デイヴィスは55年からコロンビア・レコードにレコーディングを続けていた。ミッチ・ミラー合唱団やパーシー・フェイス・オーケストラやブラザーズ・フォアがいた会社である。が、65年にボブ・ディランがエレクトリック・ギターを弾いて歌いはじめ、67年にクライヴ・デイヴィスが社長に就任した頃から路線が変わってゆく。簡単にいえば、社是のロック化、エレクトリック化だ。それに呼吸を合わせるようにマイルスも68年の『マイルス・イン・ザ・スカイ』でエレクトリック・ピアノやエレクトリック・ベースを採用、話題をふりまいた(デューク・エリントンは50年代にエレピで録音しているし、ディジー・ガレスピーは66年にエレベ専門奏者をバンドに加えているにしても)。ショーターは収録曲「スタッフ」で、サックスのトーンをアンプから出音したそうだが、やがてレコーディングにはエレクトリック・ギター、複数のエレクトリック・キーボード、パーカッションなどが入り始める。スタジオ内の音量はラウドになる一方だったろう。PAやモニターも未発達の時代、テナーの低い音色だと浮き上がってこなかったかもしれない。そこでショーターが見つけた“解決策”のひとつがソプラノ・サックスだったのではないか、というのが筆者の推測だ。このあたり、「ハードロックやヘヴィメタルのヴォーカルはどうして高音歌唱が多いのか」という事柄にも、ぜひ絡めて語ってみたいものだが。ブラジル出身のアナ・マリアをパートナーに迎えたのも60年代後半のことだ。彼女の姉妹にあたるマリア・ブッカーの歌声は、ショーターがソプラノに専念した最初のリーダー作『スーパー・ノヴァ』で聴くことができる(マリア・ブッカーは、ベース奏者ウォルター・ブッカーの妻。つまりショーターとウォルターは義兄弟にあたる)。
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70年にマイルスの許を離れたショーターは、新グループの結成に入る。元ハービー・マン・バンドのミロスラフ・ヴィトウス、元キャノンボール・アダレイ・バンドでショーターとはメイナード・ファーガソン楽団時代からの知り合いだったジョー・ザヴィヌル(マイルス『イン・ア・サイレント・ウェイ』等にも演奏や作曲で協力)と共にスタートしたグループは、ショーターによって“ウェザー・リポート”と命名された。ビートルズの歴史的なシェイ・スタジアム公演(65年)に携わったシド・バーンスタインがマネージメントに関わり、74年のヴィトウス脱退後はショーターとザヴィヌルの二頭体制に。76年から81年にかけてはジャコ・パストリアスも在籍した。この、ジャコ在籍中に、ショーターはスティーリー・ダン『エイジャ』やジョニ・ミッチェル『ミンガス』に参加、さらに76、77、79年にはハービー・ハンコックを中心とする“VSOPクインテット”(マイルスの60年代クインテットから、トランペットをフレディ・ハバードに変えた顔ぶれ)で久しぶりにアコースティック・ジャズに取り組んでいる。また75年にはブラジルのシンガーソングライター、ミルトン・ナシメントを迎えたリーダー・アルバム『ネイティヴ・ダンサー』もリリースしている。
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85年、ショーターは約10年ぶりのリーダー作『アトランティス』を発表。続いてザヴィヌルも大半をシンセサイザー・ソロで構成した15年ぶりのリーダー作『ダイアレクツ』を出し、ここにウェザー・リポート解散の噂が立つ。当初はふたりともそれを否定していたと記憶しているが、86年2月のショーター脱退で活動を終えた。ショーターは自身のグループを結成して演奏を続け、88年にはカルロス・サンタナとツアーを敢行。マーカス・ミラーを共同プロデューサーに迎えたヴァーヴ・レコード第一弾作品『ハイ・ライフ』は、96年のグラミー賞で“ベスト・コンテンポラリー・ジャズ・パフォーマンス賞”を得た(自身のリーダー・アルバムでは初)。
2000年に入った頃、ファンを驚かせたのがアコースティック編成による新カルテットの結成だ。共演はダニーロ・ぺレス、ジョン・パティトゥッチ、ブライアン・ブレイドという、親子ほど年齢の離れた逸材たち。これはライヴ・バンドだった、と筆者は思っている。ブルーノート盤の収録ナンバーや、マイルス時代、ウェザー時代に発表された旧作も新解釈され、すべての楽曲がシームレスにつながる、ワン・セットでひとつの物語を綴るようなステージで魅了した。2013年には古巣ブルーノートに、約50年ぶりに復帰。18年にはオルフェウス室内管弦楽団との共演を含む、3枚組+グラフィック・ノベルの大作『エマノン』を発表した。
健康上の問題から演奏活動を退いたのも、同じ2018年のことだが、以降もエスペランサ・スポルディングとオペラ『Iphigenia』を合作する(21年11月にプレミア公演)など、断続的ではあるが情報は届いていた。“超人ショーターにも、寿命があったのだ”ということに今なお驚きを禁じ得ない——。
Header image: Wayne Shorter. Photo: Robert Ascroft / Blue Note Records.