1969年にマンフレート・アイヒャーがミュンヘンに創設したヨーロッパを代表する名門ジャズ・レーベルECM(Edition of Contemporary Music)。透明感のあるサウンドと澄んだ音質、洗練された美しいジャケット・デザインが特徴的で、設立50周年を迎え、ますます多くの日本のジャズ・ファンからも大きな支持を得ています。この度、Blue Note Clubの中にECMの最新情報をお届けするCLUB ECMを立ち上げ、バイ・ウィークリーで最新の新譜を原雅明さんにご紹介して頂く【NEWEST ECM】をスタートいたします。
ティモテオ・“ディノ”・サルーシは、1983年にECMからのデビュー・アルバム『Kultrum』をリリースした。バンドネオンだけではなく、フルートとパーカッションも演奏し、ヴォーカルも担い、一人だけで録音に臨んだ。生まれ育ったアルゼンチンの山岳地帯のサルタ州カンポサントという小さな村へ想像上の帰還を果たすというコンセプトで、ルーツとなる音楽を辿り、それらを再発見するように作られた。ECMが同時代に紹介したドン・チェリーやステファン・ミカスらの音楽、あるいはキース・ジャレットが一人で多重録音で作った音楽にも通じるプリミティヴな響きに包まれた『Kultrum』の中で、バンドネオンはモダンで魅惑的なソロを奏でた。
この時、1935年生まれのディノはバンドネオン奏者としてキャリアの成熟期を迎えようとしていたが、『Kultrum』をきっかけにヨーロッパで評価されると、秘められた創造性を解放するようにECMから次々と意欲的で美しい作品のリリースを重ねていった。ソロやデュオから、グループ・アンサンブルやオーケストラまで、如何なるフォーマットにも、ディノのバンドネオンはフィットした。チャーリー・ヘイデン、パレ・ミッケルボルグ、エンリコ・ラヴァ、ヨン・クリステンセンらジャズ・ミュージシャン、ロザムンデ四重奏団やチェリストのアンニャ・レヒナ、そして息子であるギタリストのホセ・マリア・サルーシら家族とのグループ、それらと共に演奏してきたディノは、ECMを代表するアーティストの一人となった。
若きディノが音楽を学ぶために村を出て向かったブエノスアイレスで出会い、親交を深めたアルゼンチン・タンゴの変革者アストル・ピアソラは、幼い頃からニューヨークでジャズを聴いて育ってきた。それに対して、ディノは本も学校もラジオもレコードもない環境で育った。ただ、ディノを音楽に導いた父親は、砂糖農園で働きながら休み時間にバンドネオンを弾き、タンゴや民族音楽のリードシートを勉強するような人だった。それ故、ディノは口承伝達によって得られる音楽の学びを知っている。彼はその本質を「再構築」という言葉で説明する。
「ピエール・ブーレーズは、すべてのものを聴くことで音楽家になるのだと考えていると言いました。聴いて、体系化して、再構築する。それは通常、口承伝達で起こることです」
「学ぶことで、個人の自由を実現し、多くのことを得ることができます。自分のものを持っているからではなく、自分を取り巻くすべてのものを豊かにしてくれるからです。自分のものだと感じるためではなく、新たに再構築されたものが加わることで文脈を豊かにするのです」(All About Jazzのインタビューより※1)
ディノがジャズやクラシックの音楽家と演奏を重ねる中で、そのバンドネオンが多様な表現を獲得したのは、まさに「文脈を豊かにする」ことだった。しかし、顧みれば 『Kultrum』も、歴史と記憶を辿り再構築する作品だったといえる。1988年にディノは2枚目のソロでのレコーディング・アルバム『Andina』をリリースした。『Kultrum』とは対照的にほぼ全編バンドネオンのソロで貫かれた。重厚なパイプオルガンのような響きから、空気の振動そのものを伝えるような響きまで、バンドネオンで出すことができる大胆かつ繊細なサウンドが収められていた。ジャン=リュック・ゴダール監督の『ヌーヴェルヴァーグ』ではECMの音源が多数ミックスされて使われたが、一際印象深く『Andina』のバンドネオンが使われた。
『Albores』は、『Andina』以来となるディノのソロでのレコーディング・アルバムである。2019年2月から6月にかけてブエノスアイレスで録音された。2019年に亡くなったジョージアの現代音楽の作曲家ギヤ・カンチェリへ捧げた“Adiós Maestro Kancheli”からスタートする。ECM New Seriesからもリリースしていたカンチェリは、『Themes From The Songbook』で自身の映画音楽や舞台音楽をディノと、ヴァイオリン奏者ギドン・クレーメル、ヴィブラフォン奏者アンドレイ・プシュカレフをフィーチャーして再演した。ディノはこの時演奏したメロディを、ここで一部引用している。カンチェリへのオマージュに続く各楽曲は、幼少期の村やその後のブエノスアイレスがモチーフとなっている。ECMのオリジナル・ライナーノーツを執筆したアルゼンチンの美術史家ルハン・バウディーノは、“Según me cuenta la vida”や“Intimo”は、20世紀前半の黄金時代と言われるブエノスアイレスの美しさを想起させると書いている。“La Cruz del Sur (2da cadencia)”は、ラテン・アメリカの歴史に特徴的な哀愁を表現した曲であり、ディノの音楽にはその起源を意識したものが入り込んでいると指摘する。そして、アルゼンチンの伝統的な音楽スタイルをダンスの束縛から解き放ち、その表現力の豊かさを取り戻したのだとも指摘する。
『Albores』におけるバンドネオンが揺り動かすサウンドから、我々はディノの記憶と結び付けて具体的な情景を思い描くことはできないのだが、それでも我々の想像力に働きかけるものがあるということを、ディノ自身が正しく明かしている。最後に先のインタビューから引用しよう。
「私にとって一つ確かなことがあるとすれば、音楽はすべての人の中に暗黙のうちに存在しているということです。それはすべての人の中に埋もれているのです。それを外に持ち出して、形にする方法を知っているのがミュージシャンだと思います」
※1
https://www.allaboutjazz.com/dino-and-jose-saluzzi-family-guys-dino-saluzzi-by-eric-benson.php
【リリース情報】
ディノ・サルーシ『Albores』
Header image: Dino Saluzzi. Photo: Juan Hitters / ECM Records.