いつも陽気で微笑み、長髪をなびかせるジャズ・ギターの名手、パット・メセニーが70歳になったとは信じられない。ヴィブラフォン奏者、ゲイリー・バートンの1974年のECMからのアルバム『Ring』のサイドマンとしてスタジオに入ったとき、彼はまだ10代だった。

 ECMは彼にリーダーとしてのデビュー・レコーディングを依頼したが、メセニーは『ブライト・サイズ・ライフ』となるセッションに参加するまで2年近くかかった。

 1975年12月、ルートヴィヒスブルクのシュトゥットガルト郊外にあるトンスタジオ・バウアーで録音され、ECMの共同設立者であるマンフレート・アイヒャーがプロデュースした。

 ゲイリー・バートンの影響は大きかった。 クラシック・レコーディングの忠実さをジャズに持ち込もうとしていたアイヒャーは、アコースティック・ベース奏者のデイヴ・ホランドをセッションに参加させたかった。メセニーは2022年、リック・ベアトに、バートンはこのレコードのプロデューサーとしてクレジットされていなかったと語った。 彼は、「ゲイリーが、『あのベーシストがいる素晴らしいバンドがあるのに、なぜあんな連中を使いたがるんだ?君はいつもボストンに”あの男”を連れて来ていただろう?』と言っていたよ」と回想している。

70年代にライブ演奏するミュージシャン、ジャコ・パストリアスのカラーポートレート
ジャコ・パストリアス。Photo: Tom Copi/Michael Ochs Archives via Getty.

 その 「男」とは、当時ほとんど無名だったベースの名手ジャコ・パストリアスにほかならない。 メセニーはマイアミ大学在学中にフロリダでパストリアスと出会った。「フロリダでギグをやると、マイアミ・ビーチで1週間、ピット・バンドとして女性のモノマネ芸人と一緒に演奏したんだ」 パストリアスはメセニーのレギュラー・ツアー・バンドの一員となり、バートンのバンドでも演奏していたドラムのボブ・モーゼスとともに彼をボストンに連れてきた。若い頃のモーゼスは、アート・ブレイキー、マックス・ローチ、エルヴィン・ジョーンズと同じセントラル・パーク・ウェスト415番地(ニューヨーク)に住んでいた。

 モーゼスは現在、ラー・カラム(「見えない太陽の聴こえない音」という意味)というスピリチュアルな名前で知られている。彼は本作について、「このアルバムは、僕達がやっていたことを反映した作品ではないんだ。だから聴くことがつらい状況が何年か続いたよ」と語っている。メセニーの頭脳的なハーモニーの妙技とジャコの闊達なファンクネス、モーズのドライヴするシンバルワークとグルーヴの相互作用は、ロックにおけるパワー・トリオに相当するジャズを生み出した。

 このアルバムはわずか2、3日の短期間でレコーディングされたが、セッションは最初から心地よいものではなかった。パストリアスは時差ぼけでセッションを欠席しそうになったし(彼にとって初めてのヨーロッパ旅行だった)、彼のシグネチャーであるフレットレス・エレクトリック・フェンダー・ジャズ・ベースを増幅するためのいつものアコースティック360アンプも持っていなかった。マンフレート・アイヒャーは、彼の早熟な才能に焦っていた。  

 「あのセッションは最悪だった」とメセニーは振り返っている。「たくさんのギグをこなしてきたのに、スピーカーから聴こえてくる音はそれとは全然違っていた。それに、自分の演奏が下手だとも思ったし、特にブライト・サイズ・ライフでは大きな失敗をしてしまったんだ」。メセニーは、タイトル・トラックでかろうじて聴こえる編集によって救われたという。彼だけでなく、ボブ・モーゼスも 「私はそんなにいい演奏はできていないと思う」と同意している。

 ECMスタジオの規律は、バンドのライヴ・エネルギーを部分的に制約するかもしれないが、この録音はメセニーの作品のユニークな要素の多くを確立した。すべての曲は即興演奏のための手段として書かれ、テーマ→ソロ→テーマという伝統的なビバップの構造に従っているが、複雑な要素もあり、これから起こることを予感させる。

 メセニーはバークリー音楽院で教鞭をとっていたが、ミズーリ州リーズサミットでの初期の生活は、「Missouri Uncompromised」、「Omaha Celebration」、「Midwestern Night’s Dream」といった作曲タイトルからもうかがえる。 後者は、メセニーがパストリアスのフレットレス・ベースの音色を作曲のリソースとして使った好例である。「Midwestern Night’s Dream」の長いメロディックなベースのアウトロはメセニーが書いたもので、ジャコはECMのマンフレート・アイヒャーの純粋主義者の好みに逆らってベースをダビングした。ボブ・モーゼスは、「彼はどちらもワンテイクで録音して、まるでワーグナーのようなベースだったよ。まるでジャコが2人いるようだった」と回想する。

  それぞれのやり方で、メセニーとパストリアスは楽器の音色を拡張していた。古典的なジャズ・ギターであるギブソンES-175Nは、メセニーの手にかかると、拡張された、呪術的な音色を帯び、パストリアスのエレクトリック・フレットレス・ベースは、ジャズに根本的な新しいサウンドを生み出し、その後のポピュラー音楽の多くに影響を与えた。

  このアルバムは当時、生ぬるい評価を受けたが、ジャコが後にウェザー・リポートと録音した画期的な作品や、ジョニ・ミッチェルがパストリアスとメセニーをフィーチャーしたライヴ・アルバム『シャドウ・アンド・ライト』など、ジャズがどこへ向かっているのかを示す音楽的なシグナルを含んでいた。

 このアルバムについて、メセニーはウィラード・ジェンキンスにこう語っている。「『ブライト・サイズ・ライフ』が1975年にリリースされたとき、アルバムを気にかけてくれる人なんか誰もいなかった。今となっては、この作品は当時よりもずっと重要な位置を占めているように思える。実際、スミソニアン博物館に20世紀の100枚のレコードのうちの1枚として掲載されているんだ!だから若い人たちには、ベストを尽くして好きな音楽を演奏するようにいつも言っているんだ。音楽の中で自分らしくいるということは、人々がそれを理解するのに50年かかるかもしれないからね」


レス・バックはグラスゴー大学の社会学者。音楽、人種差別、フットボール、文化に関する著書があり、ギタリストでもある。


ヘッダー画像: パット・メセニー。Photo: Brian Rasic/Getty Images.