マルチ奏者であり、作曲家でもあったオーネット・コールマンの死から10年近くが経とうとしているが、彼がジャズにもたらした功績は図り知れず、今だに新しい発見がある。彼は音楽の常識を根底から覆し、グレート・アメリカン・ソングブックの束縛を打ち破り、ソニー・ロリンズとジョン・コルトレーン両者のファンを獲得した。コルトレーンは、なんと自身の葬儀でオーネットに演奏を依頼したほどであった。

しかし、国際的なジャズ・シーンに登場してから激動の5年間を経て、1965年から1968年のブルーノート時代は、理解されず、分析されていない。豪華なボックス・セット『ラウンド・トリップ』は、この魅力的な時代に彼がブルーノートからリリースした全てを集めたものである。すなわち『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン』(1965年)の2アルバム、『ジ・エンプティ・フォックスホール』(1966年)、『ニューヨーク・イズ・ナウ!』(1968年)、『ラヴ・コール』(1968年)、そしてコールマンが唯一サイドマンとして参加したジャッキー・マクリーンの『ニュー・アンド・オールド・ゴスペル』(1967年)である。

ドラマーのチャールス・モフェットはコールマンのテキサス時代の高校の同級生である。後に息子の名前をチャールスとオーネットにちなんでチャーネットと名付けることになる(息子のチャーネット・モフェットは著名なジャズ・ベーシストだ)。また、クラシック音楽の訓練を受けたベーシスト、デヴィッド・アイゼンソンも、ブルーノートの共同創設者フランシス・ウルフが唯一プロデューサーとして名を連ねた2枚のライヴ・アルバム『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン』を輝かせている。

オーネットの緊張をほぐすようなクラブ・オーナーの感動的な冒頭のアナウンスからして、有名なアルバム・ジャケットの『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン』は驚くべきドキュメントである。モフェットは 「フェイシズ・アンド・プレイシズ」でのオーネットの独創的なソロに喜びを爆発させている。ミックスでは最初控えめなアイゼンソンだが、すぐに独特な才能を発揮し、奇妙なワルツ「ヨーロピアン・エコーズ」や「ディー・ディー」で卓越した演奏を聴かせる。オーネット自身も、演奏は常に進歩しており、どうやら中東の音階も取り入れているようだ。

アルバム『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン』のジャケット画像。写真は デヴィッド・アイゼンソン、オーネット・コールマン、チャールス・モフェット。ストックホルム、フムレ公園。1965年12月。Photo: Francis Wolff / Blue Note Records。

1971年、ジャズの名著『Notes And Tones』に掲載されたアーサー・テイラーとの有名なインタビューの中で、オーネットは『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン Vol. 2』でトランペットとヴァイオリンを演奏し始めた理由を明かしている。「最高のサックス奏者とか、最高のあれやこれやだとか、そんな風に知られたいとは思わなかったんだ。ただ、演奏したかっただけだ」。彼は常に探究心旺盛であり、「スノーフレイクス・アンド・サンシャイン」でのアイゼンソンとの狂乱のヴァイオリンとベースの対決は、『ラウンド・トリップ』のハイライトである。

1966年春、オーネット、アイゼンソン、モフェットはロンドンのロニー・スコッツ・クラブで有名な1ヵ月間の公演を行った。しかしニューヨークに戻ったオーネットは、ドラマーの交代を敢行する。息子のデナードは母親のジェーン・コルテスとロサンゼルスで暮らしていたが、6歳の誕生日にショットガンが欲しいとオーネットに頼んだ。オーネットは代わりにドラム・セットをプレゼントした。

10歳のとき、デナードは突然、父親と復帰したばかりのチャーリー・ヘイデンをベースに迎え、ルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオで『ジ・エンプティ・フォックスホール』をレコーディングすることになった。オーネットは息子の演奏を絶賛したが、批評家やミュージシャン仲間からの評価は冷笑的なものであった。オーネットはこの反応に驚愕し、「嫉妬している」と評価を非難した。

アルバムは素晴らしい「グッド・オールド・デイズ」で始まるが、これは実質的に7分間のオーネットのソロである。この曲で若いデナードはヘイデンが一人でグルーヴを作り上げている間にも、正に必要なことを演奏する。一方、「サウンド・グラヴィテーション」は、息子がすでに優れたリスナーであったことを証明しており、「フェイスフル」はクラシックなオーネットのバラードである。

1967年初頭、オーネットは交響曲「アメリカの空」の作曲により、グッゲンハイム・フェローシップ賞を受賞した。また、彼は有名なダウンビート誌に、違いを受け入れ、商業主義を捨て、ミュージシャンの正当な報酬を求めるという有名な記事を発表した。その後、幼馴染みのテナー・サックス奏者デューイ・レッドマンと再会し『ニューヨーク・イズ・ナウ!』と『ラヴ・コール』のアルバムを制作した。ジョン・コルトレーンのグループを支えたエルヴィン・ジョーンズとジミー・ギャリソンがドラムとベースで参加し、この2枚のアルバムから少なくとも2曲のオーネットの傑作が生まれた。 後にパット・メセニーがカバーした 「ブロード・ウェイ・ブルース」と、オーネットとレッドマンのソロが見事なコントラストを聴かせる 「トイ・ダンス」である。

オーネットとデナードは1968年5月、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの 「貧者の行進(Poor People’s March)」に参加した。これは、彼がソーホーのプリンセス・ストリート131番地に最初の家を購入した翌月であり、この家の3階にあるロフト空間は多くのミュージシャンのメッカとなった。この時期はオーネットにとって、個人的にも音楽的にも大きく進化した時期であった。『ラウンド・トリップ 』には、こうした変化のすべてが凝縮されており、彼が自身のスタイルを貫き、ジャズを[冒険]として捉え続けてきたことを証明している。


マット・フィリップスはロンドンを拠点とするライター兼ミュージシャンであり、その作品はJazzwise、Classic Pop、Record Collectorに掲載されている。著書に『John McLaughlin: From Miles & Mahavishnu To The 4th Dimension』、『Level 42: Every Album, Every Song』がある。


ヘッダー画像: オーネット・コールマン。Photo: Francis Wolff / Blue Note Records.