1950年代の全盛期、チェット・ベイカーは、トランペッター及び歌手としての才能が崇拝され、「クールなプリンス」(The Prince of Cool)の名で知られるクール・ジャズのイノベーターであり、人気者かつヒーローであった。しかし、彼は苦難の道を歩んだ。薬物中毒と刑務所での服役により、彼の悪名は定着し、あまりに早すぎる没落の一因となった。ここでは彼の悲劇的な人生とキャリアを、重要なレコーディングを通して辿る。

1950年代初頭、まだ20代前半だったベイカーは、スタン・ゲッツと共演したり、チャーリー・パーカーの伴奏を務めたりして、西海岸ジャズ・シーンの新進気鋭のミュージシャンとして頭角を現した。1952年、彼はバリトン・サックス奏者のジェリー・マリガン率いるカルテットに参加し、ビバップの燃え盛るような技巧から離れ、よりメロウでリラックスしたサウンドを好んで演奏するようになり、このカルテットをクール・ジャズの代表的存在として確立する事に貢献した。ベイカーとマリガンは完璧なコンビであり、ビバップのユニゾンのメロディ・ラインを避け、代わりに予期せぬ対位法で直感的に互いを補完した。アルバム『Lee Konitz Plays With The Gerry Mulligan Quartet』を聴くと、1953年当時のグループがどんな様子だったかを知る事が出来る。同アルバムでは同じくクール・ジャズのスター、アルト・サックス奏者のコニッツも加わり、スウィングしながらも燃え上がるような演奏を披露している。

ベイカーがマリガンのバンドに在籍していたのは、1953年半ばに麻薬取締法違反で6ヶ月間服役したことで突然終わった。釈放後、彼は驚くべき新しい方向性を打ち出し、1954年に『チェット・ベイカー・シングス』をレコーディングし、当時としては衝撃的なほど中性的で、軽やかで物憂げな歌声のヴォーカリストとしてデビューした。このアルバムは大ヒットし、彼の二枚目俳優的なイメージも相まって、ベイカーはジェームス・ディーンと肩を並べるピンナップ・スターの座に躍り出た。人気のスタンダード・ソングをベイカーが魅惑的に解釈し、粋で無頓着な曲として定着させたこの曲は今なお愛され続けている。切ない想いが溢れたベイカーの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は大ヒットし、彼の代表曲となった。

歌手として名声を得たにもかかわらず、ベイカーはトランペッターとしてシーンに君臨し続けた。1955年10月、彼は初めてヨーロッパ・ツアーを行い、フランスでの一連のスタジオ・セッションを録音し『チェット・ベイカー・カルテット』として3枚のアルバムをリリースした。

1枚目のVol. 1では、ピアノにディック・ツワージク、ベースにジミー・ボンド、ドラムにピーター・リットマンを迎えたカルテットで、作曲家でアレンジャーのボブ・ジーフの8曲とツワージクの1曲を演奏している。このセットには活気と生きる歓びが溢れており、ベイカーはアップテンポな曲でも落ち着いて完璧な演奏を披露している。

Vol. 2では、ジミー・ボンドが唯一のオリジナル・メンバーとして参加し、スウェーデンのドラマー、バート・ダーランダーと、セッションのわずか3日前にヘロインの過剰摂取で24歳で亡くなったツワージクの代わりにフランスのピアニスト、ジェラール・グスタンが参加している。このアルバムでは物憂げなバラード「テンダリー」からミッドテンポの「サマータイム」まで、8曲のスタンダードに取り組んでいる。ベイカーのフレージングは非の打ちどころがないほど無駄がなく簡潔で、メランコリーが吹き込まれている。

Vol. 3では、ベルギー人サックス奏者ボビー・ジャスパーをフィーチャーしたクインテットなど、いくつかの異なるレコーディング・セッションが収録されており、ベイカーは落ち着いたバラードとハード・バップ寄りのスウィング・ナンバーの両方で輝いている。

ベイカーの薬物使用と法律違反は50年代を通じて続いたが、それでも彼はいくつかの重要な作品を残すことができた。1958年12月と1959年1月に録音された『チェット』、別名 『ザ・リリカル・トランペット・オブ・チェット・ベイカー』は、フルート奏者のハービー・マン、ギタリストのケニー・バレル、ピアニストのビル・エヴァンス、そして当時マイルス・デイヴィスのために活動していたベーシストのポール・チェンバースとドラマーのフィリー・ジョー・ジョーンズのリズム・セクションを含むオールスター・キャストをフィーチャーした印象的な作品である。

共演者の経歴がベイカーの実力を証明している。この時点で彼はすでに有名なシンガーだったが、この見事なインストゥルメンタル・アルバムでは、9曲のスタンダード・バラードに饒舌な魅力を吹き込んでいる。しかし、ベイカーのライフスタイルは彼を窮地に陥れ始めた。1960年から1年半近く、複数の薬物犯罪でイタリアの刑務所に収監され、その後も新たな犯罪による逮捕でスイス、フランス、イギリス、西ドイツを転々とした後、最終的にアメリカに強制送還され、1964年にニューヨークにたどり着いた。しかし、どういうわけか彼の才能は衰えていなかった。

1965年に録音された 『ベイカーズ・ホリデイ』は、偉大なジャズ・シンガー、ビリー・ホリデイに捧げたトリビュート・アルバムで、ベイカーはフリューゲルホルンを演奏し、ピアニストのハンク・ジョーンズを含む大人数のミュージシャンがバック演奏を務めている。レディ・デイ(ビリー・ホリデイの呼称)にちなんだ10曲のうち4曲をベイカーが歌っており、彼のタイミングと音色は絶妙だ。

翌年の1966年、すべてが変わった。ベイカーはひどい暴力を受けた(おそらくドラッグの取引で失敗したのだろう)。歯が何本も折れ、アンブシュア(管楽器を演奏するときのマウスピースを当てる唇の形)がボロボロになり、ホルンの吹き方を学び直さなければならなくなったのだ。1970年の『Blood, Chet And Tears』は、ポップスやイージーリスニングへの転向を告げるもので、彼が直面した苦難を映し出した感動的なスナップショットである。

「Come Saturday Morning」やザ・ビートルズの「サムシング」などの曲では、彼の声は情感に溢れ、甘く傷つきやすいも反抗的なまでに確信に満ちており、自身の境遇に苦しむアーティストの姿を露わにしている。しかし、これでチェット・ベイカーが終わったわけではなかった。1973年、数年間表舞台から姿を消した後、彼はカムバックを果たした。ジャズのルーツへ戻り、多作なレコーディングを開始した。70年代を通じて、彼は魅惑的なライブ・パフォーマンスで評判を高め、ドラムを排除したアンサンブルの静寂を好むようになった。

そして1983年、エルヴィス・コステロの曲「シップビルディング」にトランペット・ソロで参加し、彼の計り知れない才能を新世代のファンに知らしめた。それは名声の最後の瞬間だった。1988年、ベイカーはアムステルダムのホテルの2階の窓から転落し、死亡した。享年58歳。体内からはヘロインとコカインが検出された。ジャズ界で最も波乱に満ちた人生の悲しい幕切れだった。しかし、彼の不朽の才能とカリスマ性は時代を超えて生き続けるのだ。


ダニエル・スパイサーはブライトンを拠点に活動するライター、放送作家、詩人で、The Wire、Jazzwise、Songlines、The Quietusなどに寄稿している。トルコのサイケデリック・ミュージックに関する本や、Jazziwseのアーカイブから記事を集めたアンソロジーの著者でもある。


ヘッダー画像: チェット・ベイカーが1952年頃、ニューヨーク州ニューヨーク市のナイトクラブで演奏している様子。Photo: PoPsie Randolph/Michael Ochs Archives/Getty Images.